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書評:ビルギット・ニルソン オペラに捧げた生涯 (春秋社)

2008年11月23日

★★★★★

爆発のおもしろさ。ビルギット・ニルソン(1918-2005)は私はもちろん、ライブで聞いたことはないのだが、ワーグナーを得意とするソプラノ歌手として名前を全世界に轟かせたスウェーデンのおばちゃんである。どこからどう見てもおばちゃんと形容するのがふさわしい方である。なぜおばちゃんなのか、ま、それ以上の説明は許して欲しい。事情あって割愛させて欲しい。太っている、なんてこと、大きな声では言えない。奇妙なジョークのセンスを持った人、とかいう誰かのコメント(レヴァインだったかも?)を覚えていた事もあって、この本は面白いかもしれないと興味津々で読み始めたところが大当たりであった。


このおばちゃんは怒髪天を衝くほどの声量を生かしたモーレツ歌唱でも知られているのだが、この自伝もまことにモーレツの極み。もうなんつーか、はは、おもろ、なんていうもんではない。激烈に、際限なく、面白い。ギハー!つって布団に倒れ込んで、もう一回読み直してギハー!っつってまた倒れるぐらいおもろい。下がって行って助走をつけ、ぐっと飛び上がり、8段の高さの跳び箱で台上前転を連続で5,6回したところでまったく間に合わなさそうな興奮があなたにも持続することは間違いない。この興奮、誰かおさめて!助けて!

読みやすさのバチグンさはもとより、本当かウソか分からぬが奇妙に納得させられるエピソードの数々。むしろウソつけ!と叫びたくなるへんてこジョークが山盛り。そしてこれは翻訳者の市原和子氏も後書きで触れておられるが、他人の中傷、罵倒、呪詛、そのようなものがなく、読んでいて爽快。一例として、お互い口も聞かなくなったカラヤンに対してもその天下一品の腕前はしっかりと認めている記述が秀逸。また自分の失敗をいくつかを正直に記しているその感覚も心地よい。ニルソンさんのような偉大な歌手が舞台上でまさか・・・(略)。

全社員(って誰?)必読の書物であることの断言を憚らなくてよいと私は信ずる。この本の値段の高さ(¥3,360)にまず驚き、そして内容のおもしろさに再度驚け!

走ることについて語るときに僕の語ること

2007年10月21日

関空-羽田の飛行機の中で村上春樹氏の新刊「走ることについて語るときに僕の語ること」を読んだ。この本は彼のマラソン歴に関する事が中心に語られる。しかしマラソンよりもトライアスロンよりも私が激しく同意してしまったのが、最近の地球の異常気象に関する彼のさらりとしたコメントである。興味のある方は実際に読んで頂くとして(どこにどんな経緯で書いてあったか忘れただけ)、彼の書いていたのは、異常気象は温暖化のせいかもしれないしそうでないかも知れない、というものである。


私はこういう考え方が好きである。いやーさすが村上春樹氏である!・・・って私が言うまでもないけれども。私は、どこの誰が異常気象を間違いなく説明できるのだろうか?と思っている。立派な学者といえども、何十億も続いてきた地球という存在の、記録の残っているようなせいぜい数百年の話だけから何かを断定することは出来るのだろうか?

それで、この話のどこが音楽と関係があるかというと、これがあるんですな。ま、少し上の事とはずれるかも知れないけど、「原典版」の正しさとか、そういうたぐいの(とりわけ聴衆の側の)議論である。彼はアラウの校訂版で弾いているからおかしいとか、いやいややっぱり園田版だぜ!とか、ベーレンライターがどうだとか春秋社版はやめておけとか、そういうことに私はあまり興味がわかない。みなさんはこの辺はどうお考えになって接しておられるのだろうか。

その楽譜が本当に正しいとか間違っているとか、作曲家の書きたかった本当の音符は?とかそういうことよりも、ずっとずっと大切なのは、ある演奏家がその楽譜に対して信念と共感を持って演奏しているかどうかなのであると私は信じる。いかに理論を固めたとしても、本当に正しい楽譜を使用していても、その演奏が聴衆の心に届かなければ話にならないではないか?ハイリゲンシュタットを歩いたからと言って素晴らしいベートーヴェンの演奏が出来るわけでもない。ピース。

客室乗務員は見た!

2007年7月29日

幸いなことに私自身は今まで体験したことは無いけれども、コンサート会場の客席のトラブル、そういうものはやはり、そこに座っているのが人間である以上、避けられないものである。先日も、こんなクレームあんなクレームなんていう話を聞く機会があり、大変興味深かった。残念ながら世の中にはトンでもない人間もいるわけである(自分がそうならないように常に注意を払う必要もあるわけだけれども)。しかし、それをいかに解決するか、解決したのか、なんていう話には我々の好奇心、野次馬根性がかきたてられるのではないか。

そこで、そんなあなたに(私に)この本である。コンサートなんかよりもさらに困難な状況を引き起こすであろう機上のトラブルについて書かれたエッセイである。空中にいるからには、着陸をしない限り出て行ったり出て行ってもらったりと言うことができないわけで、そんな中でいかに対処するのか?ご自身の長年の経験談、あるいは同僚たちの逸話が書かれていて激烈に面白かった。肩の凝らない気軽なエッセイであり、飛行機に乗ったことのある方にもそうでない方にもオススメ。

ところで、いま思い浮かぶ、私が聞いたことのあるコンサート会場での逸話というのは、著名ピアニストであるアルフレッド・ブレンデル氏がブリュッセルでコンサートをなさった時の話である。演奏中に老婆がいきなり立ち上がってフラッシュ付きで写真をお撮りになった、というのである。気がついて演奏を止めたブレンデルに気兼ねがしたのか一度はお座りになった彼女だが、演奏が再開されるとまた立ち上がって再度お撮りになったという。で、やっぱり演奏を止めたブレンデル氏は、ただ演奏を止めただけではなく一言「You, get out!」(あなた、出ていきなさい)とお叫びになったそうである。あの分厚いメガネ越しに言われる事を想像すると・・・おお怖(こわ)。

ってまあそんな話はともかく、そういうたぐいの話もあり、また、そうなりそうな状況に陥りながら、機知と機転で場が和やかになった、なんていう話、はたまたクルーのお間抜けな失敗談もあったりして、キシシシと読めることに疑問はない。ププー!と吹き出すエピソードもあるため、電車の中での精読はオススメしない。

ピアニストは指先で考える

2007年7月17日

直前に読んだ「ピアニストから見たピアニスト」という本は、私にはどうも皮肉やシニカルさが過ぎるように思われて好きになれなかったのだけれども、人にいーよーいーよーと勧められて買ったこの本は確かに面白かった。満足した。


この本は中村紘子氏の著作ような誰が読んでも面白いぜ!という普遍的なものではなく、むしろ、ピアノや音楽が好きでいろいろと体験してきた人が読んでひっくり返る、そういうたぐいの本であると思う。内容にやや専門的なものが多く含まれるからだ。

たとえば語られるのは著者が初見(楽譜をぱっと見てすぐに弾く行為)能力に長けているため、スラスラと出来てしまって人の悩みがあまり分からないだとかいう話や、その逆にあんなことやこんなことが出来なかった故に悩んだ話、どうすれば出来るようになるのかを自分なりに突き詰めた結果、あるいはその解決方法などを読んでいるうちに、同じピアノを奏する者のひとりとして共感してしまった。ああー、あるあるあるある、と一人合点するのだ。私が山瀬まみならガッテンボタンをひたすら叩いていたであろう。

最初の、専門的な話故にやや退屈な部分を過ぎたところを耐えると(といってもそこまで退屈なわけではない)そのうちにぐっぐっと面白くなって行き、真ん中あたりにたどり着くにつれ爆裂的に面白くなってゆく。頭がぐらぐらと沸騰するほど興奮の中間部を経て、や、や、やがて、ゆるやかに面白さは下降線をたどりながらこの本は・・・終わる。下降線をたどると言っても、面白くなくなるのではなく、興奮がゆっくりと冷めていく、そのような心地よい終わりとなるわけ。

あまりにも鮮やかな語りぶりに、読んだだけですっかりそんなつもりになってしまった!とか、ピアノがうまくなったなんていう気になってしまいました!と告白する方も一人や二人ではあるまいと思うのである。今までの青柳いづみこ氏の著作の中でももっとも面白い本のひとつであると思われる。オススメ。ペンフィールドの脳地図のような表紙にも笑いました。

高島俊男さんの本は面白いですねそうですね

2007年6月16日

私が余暇の時間にすることと言ってそれは、パソコンの前にじっと佇んでカチカチニヤニヤしていることももちろん重要であり外せない人生の一部なのだけれども、当然そればかりがすべてではない。炊事、洗濯、掃除、そして読書である。

外国に3年ほどいた私は、日本の本に接する機会が激減したこともあり、読みたいなあと思う本を購入する機会がなかなかなかった(←なかが三回連続しました)のである。そして時が進むほどに、読まねばならない本リストは単純に増えていったのであった。というわけで帰国後の私の読書は今もなお、読まないといけなかったリスト、その辺りを重点的に攻めているわけである。近くにブックファーストも2店舗あることだし、日本最大のジュンク堂もあるし、なんとなればオンラインでもぽちっと購入できる。NめKービレという劇画を現在進行形で制覇中なのも目下の幸いだ。

しかし、ここ数日、主に私が滞欧中に出版された、つまり私が取りこぼしていた作品を制覇すべく読み進んででいる高島俊男さんの御本は、そりゃあもうやたらとおもしろく、私としてはみなさまにも是非とも読んでいただきたいなと思うのだが、中国文学を専門にしておられる氏の、漢字とか日本語にまつわる話の数々には、目から鱗という言葉がバッチリグーに当てはまるのだ。

その中の、私がハタ!と膝を打った一言を本日は書き抜いてみたい。そうすることでサイト再発信の弾みとしたいと思うところなのである。以下の文章になぜ私は興奮したのか。それは、いわゆるクラシック音楽の解釈の正統性とか、歴史的な正しさなどという言葉がいかに「ナンセンス」であるかを改めて理解したからなのである。

たとえば論語を、春秋時代の支那語でよむことは絶対に不可能である。理由はかんたんで、どんなおとであったかわからないからだ。おなじく、史記は漢代の支那語で、李白や杜甫は唐代の支那語でよめというのもナンセンスである。・・・(中略)・・・書物はそれがつくられた時代の発音ではなく、それがよまれる時代の発音でよむにきまっているのである。
「漱石の夏やすみ」115ページ  高島俊男著 ちくま文庫

いったいいくら稼げばいいのかと II

2007年2月26日

 パヴァロッティのような大傑物はともかくとして、私の、その他の音楽家への下世話な興味は尽きぬのである。いったい華麗なる音楽会の裏ではどういう金額の交渉などが行われているのか、少なくとも関西人な私にはだいぶん興味深く思われる。ゲヘヘヘと手ぐすねを引いて待ちかまえているのだ。って何を?

 そうは言う物の、芸術とお金の問題は、私がいうのもあれではあるけれどもなかなか繊細だ。いやしくも芸術に金の話を持ち込んではならぬ、という考えも根強くあるし、儲けたら儲けただけ恨まれる、妬まれる、「金に魂を売ったやつ」などと足を引っ張られる。確かに私としましても、なんとなく、いやー、やっぱりそうだよね。なんつーか、ほら、汚れるっての?いやべつにいい子ぶるんではないんよ、はは、なんてってそんな意見に曖昧に賛同していたものである。これまでの所は。

 思いを巡らせてみると、たとえばカルロ・マリア・ジュリーニ(2005年に亡くなったイタリアの偉大な指揮者、クリント・イーストウッドに似ている。)は決して金の話をしなかったそうだが、その彼とて無銭で指揮していた訳ではない。彼の代わりに、妻がその辺の問題をシビアーに取り仕切っていたという。いかに崇高な芸術であれ、お金とは縁が切れぬ。

 ま、それはここで措いておくとして、ビジネス社会一般ではどういう風に交渉事が進んでいるのかということを垣間見ることが出来るこの本、いやー、面白かったですな。ブックファーストで平積みになっていたのをうっかり買ってしまったのだが、ページを繰る私はギハハオモチローイ!と叫んでいた。

 著者は弁護士であって、一般に交渉事に弱いとされる日本人でありながら、アメリカ人からも敵に回したくないと言われるタフガイなんだそうである。その方が、交渉事とはかくの如くなされるべきであるよと明快に平易に説明してくださっているのがこの本というわけ。どっひゃーって度肝を抜くような事を仰っているわけではないのだが、うむうむ、と首肯する内容に溢れている。ふざけず茶化さず、一人夜中に座布団の上、正座して読むことをオススメする。たとえば
自分の利益を犠牲にしてまで、相手に好かれようとしなくてよい。堂々と言うべき事を伝え、フェアな取引を目指す。むしろフェアな取引をするために一歩も譲らないという態度をとれば、相手から尊敬され、それゆえに仲良くなれるものだ(P68)

交渉では、相手に「勝った」気分になってもらうことが大事だ。交渉の結果、相手に「勝った」気分になってもらい、なおかつ自分も「勝つ」にはどうしたらよいか。そう考えながら交渉を進めることが大切だ。(P138)

 あー、抜粋が下手ですいません。ともかく腰の据わった感じがしますなあ、と思う。ま、書くのは簡単で、実際の交渉事というものさじかげんはなかなか難しいんであろうが、なんにせよ各地で信頼を受けておられる方の発言には説得力があることであるな、と私はチキンカレーを注文しながらぶつぶつとそう思ったのである。

京極堂シリーズ最新刊精読(全1回,多分)

2007年1月21日

 コンサートの評論、批評文に対して、それを読む人はその批評についてさらに何がしかの印象、批評を持つ。私の場合はたいてい、否定的に読んでしまう。たとえば好きな演奏家がけなされればがっかりしながら「何もわかっていない」という事になり、褒められたら褒められたで「的はずれな事を言って、はいはい」といじわるく思ってしまうのである。要するに、自分が最高の理解者であると思ってしまっているのである。勝手なものだ。

 しかしみなさんは、クラシック音楽系の雑誌などをハラハラとめくると現れるコンサート批評、これについて何らかの疑問をお感じになったことないだろうか。私などはこう見えてかなり短気であるから、何を寝呆けたことを書いているのだろうかこの人は!と思わず激してしまうのである。心拍数は上がる、額には大汗をかく、ギウと手を握りしめる。となりでマンガの立ち読みをする中学生に向かいデアー!と叫びたくなる。やがて沸々とこみあげる怒りはあらぬ方角へと向き、そもそもこのページは何のためにあるのか?当日そのコンサート会場にいた、せいぜい2000人程度の人間のうち、その雑誌を手に取り、そこのページを開き、読む人はどれほど居るのか?という所まで行く。

 しかし私は昨年秋、ようやく開眼した。教えてもらったのである。建設的な、心臓にもやさしい批評読み方を学んだのである。といっても直接おしえてもらったわけではなく、本を通じて教わったのである。それは京極夏彦氏の最新刊「邪魅の雫」というミステリー小説からである。おもピロかったのである。ピロピロってって痴呆的に感心しつつ読んだ。作中人物である京極堂の言葉を以下に記す。そこでは文芸評論について語られているのだが、音楽評論についても同様のことが言える。講談社NOVELS版P160-P165のあたりである。
「よい評論とはおもしろい評論のことなのだ。取り上げた作品の絶対的価値を定めるような代物では金輪際ない」

「書評は、先行するテクストを材料にした二次的な読み物だ。」

「良い評論と云うのは小説以上に創意工夫が必要なのさ。構築的で論理的で、尚且つ読ませる努力がなくちゃいけない。つまり-読み物だ」

 その批評が正しいのか的はずれなのか、という点を議論するのはナンセンス、それよりも文章としておもしろいかどうかが大切なのだ、というわけ。いやー、たいへん興味深かったです。

いったいいくら稼げばいいのかと

2007年1月14日

 日本に帰ってきておもしろい本にふれる機会が格段に増えたこと、つまり普通にあちこちに本屋さんがあること、それは私にとっては幸せな事なのである。ネットで見ておもしろそうだなと思った新刊でもベルギーの日本書店では高すぎて(最低でも倍以上する)買えない、もしくはそもそもベルギーに来ない、などと言う理由でギギギと悔しい思いをすることもない。

 「王様と私」(集英社)は20世紀最大のおデブことルチアーノ・パヴァロッティ(テノール歌手)のマネージャーを長い間勤めた人物ハーバート・ブレスリン氏の回想録。昨年末に出た新刊である。バチバチおもしろかった。やはりパヴァロッティの話がメインであるけれども、ブレスリン氏と関わりのあった人たちのことも多く書かれている。きらびやかなオペラやコンサートの裏でどういう事が起きているのかということがわかる。

 アーティスト同士のライバル意識、彼らが極めてわがままで身勝手なこと、だれもが本番前に必ず体調を崩してキャンセルしたがる話など、それはもう、べらぼうに興味深い。あるいは、クラシック音楽は儲からないなどと言うけれども、いったいトップランクのアーティストたち(主に歌手たちの話。もちろんわけてもその頂点に君臨したのがパヴァロッティなわけだ)はどれほど収入を得ているのかということも知ることが出来る。

 現在もまだ活動を続けている人たちも含め下世話な話をひたすら書きまくったこの本は、野次馬な私やあなたにぴったりである。しかし、芸術家は芸術に身をささげるべきで金銭とは無縁であるべきという考えを持つ方、あるいは芸術の舞台裏など知りたくないとおっしゃる方もおられるだろう。そういう方々は気分を害されること必至であるから、この本はお読みにならないことを強くお勧めする。もちろんこんな話は知る必要など全くないのである。

 で、かの有名な「三大テノール」コンサートで彼らはどれほどのお金を手にしたのか。ババーン!!第1回目、1990年のイタリア公演では交渉が拙かったのだそうである。「わたし[ブレスリン氏]が[金額交渉に]かんで」いなかったため、3人がサインしたのは一律でたったの30万ドル(約3,600万円)だったという。で、1994年ロサンゼルスで開かれた第2回目はしっかりやって「三十万ドルというけちな金額とは、くらべものにならなかった」という。その金額は・・・・・それについてはどうぞご自分の目でお確かめください。

ショスタコーヴィチ ある生涯

2007年1月 8日

 年末に私は記念イヤーの最後を飾るにふさわしく、ショスタコーヴィチの伝記を読んでもいたのである。『ショスタコーヴィチ ある生涯 [改訂新版] 』ローレル・E・ファーイ著。この本を出版しているのは、いつも翻訳がなんだかなー、今一歩だなー、だが読み応えは十分!な本の多いアルファベータ社である。この本は翻訳も良く、引っかかりながら読む煩わしさが少ないという点でもオススメ。もちろんショスタコーヴィチに関しての伝記という意味でも興味深い本である。たとえば、ショスタコーヴィチが12音技法などの前衛音楽に基本的には否定的だったのではないかと思われるエピソード(P266)など、読んでいておお同士よ!と小躍りしたい話であった。

 しかし、何よりも私が注目したのは最後の最後におまけのように書かれている編集部からの言葉なのだ。しゃっちょこばった文章だが、いいことが書いてあるので引用。
人名や地名などのカタカナ表記については、現地での音になるべく近づけることを大前提としたのはいうまでもない。しかし、どう表記するのが最も近いかについては、時代によって、あるいは人によっても異なるようで、すべての方を満足させることはなかなか不可能である。本書においては、基本方針として、ロシア語あるいは英語での綴りに戻りやすいであろう法則に基づいて、カタカナ化した。それでも、ソビエト、プラウダなどすでに日本語として定着しているものは、例外としてそれに従った。(P526)


 どうも我々日本人、普段はあいまいなのに、こういう事になると果然断然あいまいを許せぬようで、一例を挙げれば「ウィーン」なんかもそうである。ヴィでなければ絶対に行かぬ!というわけ。ヴィだよヴィ、ウィなわけないでしょう、ドイツ語ではwは濁るんですよ!ご丁寧に知識蘊蓄を披露してくれたりもする。

 そんなとき、成る程賢くなった!と思うこともあるのだが、考えるにそもそもカナとアルファベットは完全に異なる存在なのであるから、無理が生じるのである。もし外人と話をしていて、固有名詞などで何か不都合が生じたのであれば恥ずかしがらずに「違うねアハハ」と笑ってすませればいいし、実際それで済む。そもそも英国人はヴィエナviennaと言うし、フランス人ならヴィエンヌvienneである。日本人がウィーンといって何が悪いのかショスタコビッチと言って何の問題があるのか!(後者はちょっぴり問題かも)。


白洲正子自伝

2007年1月 7日

 舞台に登場するとき、演奏が終わったときに拍手をすることは当たり前のように私なども思っているけれども、しかしその行為はどうやら輸入されたものなのである、ということをご存じであろうか。私がそのことを知ったのはこの正月のあいだの出来事なのであった。

 私は年末に「白洲正子自伝」(新潮文庫)を読んでいたのである。知らないという人のためにこの方について乱暴にたった二言でご紹介すると、骨董の目利き、随筆家である。偉い人なのである。この自伝、面白さは爆発級なのだが、それはともかく、1922年つまり大正11年に日本に来た著名バレリーナ、アンナ・パヴロヴァに関する記述が「拍手」と関係する。1910年生まれの著者はこの来日公演を見たそうなのだが、その話の中に出て来るある団員の「おもしろい後日談」。

「帝劇の観客に、我々の踊りが受けたかどうかは全く見当もつかなかった。というのは、日本の観客は拍手をしないからなのである・・・・<中略>・・・・緞帳(どんちょう)が静かに降りてゆく。が、幕の向こう側では、いっさいがっさい、物音ひとつ起きないのだ・・・<後略>」(P142-143)

 もちろんクラシック音楽の中にも拍手をしてはいけない曲というのがあるけれども、それはまあ約束事として決まっているのであって、そもそも拍手を知らないというのとは根本的に話が異なる。想像してみられるとよい、たとえば速度を増しながら燃え上がるようにベートーヴェン「熱情」ソナタが終わった瞬間、ひとりステージ上で興奮して立ち上るピアニスト。ババーン!激しく迎え撃つは無言の聴衆。・・・・ピアニストは恐怖のあまりそのまま絶命しそうになるであろう。

セーブグリーン、セーブマネー

2006年8月13日

 どんな言語であれ、歌の歌詞を聴き取るのは一部困難である。また、例え聴き取れたとしても、意味を了解することが難しかったりもする。そんな話を一つ二つ。まずはあの滝廉太郎作曲「箱根八里」



 箱根の山は 天下の険 函谷関も物ならず
 万丈の山 千仞の谷 前に聳え後に支う

 この最後の句の漢字を先日初めて理解した。誘っているのではなく支えているそうだ。ああ。汗顔である。ひらがなでは正しくは「ささふ」と表記する。さらに言うと「サソオ」と発音するのが正しいと言う(高島俊男著「お言葉ですが… 7 漢字語源の筋ちがい」下の画像をクリックするとオンライン書店bk1に飛びます)。ああ、歌詞を聴き取って正しく理解するのは難しい。


 その次。このサイトの現在の訪問者数は日に450から600程である。そのうちおよそ2、3名しか理解して頂けないようなローカル話で恐縮だが、京都の住宅地には「関西古紙回収協同組合」の車が古紙回収にやってくる。スピーカーから口笛のような音楽を鳴らし、台詞を叫びながら(いずれもテープ)各路地を通過していくのだ。古紙が余っていたら下さいというわけである。この台詞が判らない。先日私の長兄が解き明かしていくれていたのだが忘れた。今日の今日まで彼らのことを「関西古紙共通協同組合」だと思っていたが、それもそのスピーカーの声だけを聞いていて記憶していたためだ。

 先ほど歩いていてこの車に何年かぶりに遭遇したのでさっそく検索してみた。そうすると、以下のようであったので自分のためにも記しておく。BGMは「誇り高き男」という西部劇映画のテーマソング。

「♪セーブグリーン セーブマネー かーんさーいこっしっ (ここまでが歌、以下台詞) こんにちは 古紙が大好物の子山羊のピットくんでおなじみの関西古紙回収協同組合です。古紙回収にやってまいりました、合図してください、すぐにまいります。」

 なかなか意味不明である。ピット君って何なのだろう?ドライバーの方も何を言っているのか判らないのだという。それにしても、ああ、ああ、やっぱり聞き取りって難しい。って箱根八里とこれとは難しさの意味合いがやや違うけれども。

棒振りのカフェテラス(岩城宏之著、文春文庫)

2006年4月26日

 私はリヒテル(1915-1997、ソ連)というピアニストが好きではなかった。とてつもなく巨大な存在であることは認めるのだが、だがかえって巨大すぎ、近寄りがたい・・・。なんていうふざけた前置きの似合ってしまう人である、リヒテルは。というわけで告白するが私も彼の演奏があまり好きではない、今でも。

 しかし私が古本屋で発見した、著者の様々な音楽家との出会い、思い出を記した「棒振りのカフェテラス」(著者である岩城宏之(1932-)氏は日本を代表する怖い指揮者、エッセイスト)の、とりわけリヒテルの稿は劇的に素晴らしかった。この文章にはこれまでの「えー?リヒテルゥー?(語尾上げでどうぞ)」の壁を突き崩すだけの力を持っている。僅か10ページ足らずの文章だが、読後のリヒテルへの共感度は絶大であった。この文章のなかで描かれているリヒテルは巨大すぎるリヒテル、不満と嫌味をまき散らすだけのリヒテルではない。

 なぜというなら、リヒテルは・・・・・続きは文庫でどうぞ、ご自身の目でお確かめ下さい。嘘である。1967年初めて二人が共演した時の話なのだが、なんとリヒテル、本番直前になって緊張のあまり手が氷のようになり、ガタガタ震え、とても一人では歩けなくなってしまったのだそうである。この日の演目であるバルトークの協奏曲第2番は歴史に残る超難曲の1つだとはいえ、これまでリヒテルは何度となく演奏してきたはずであり(たぶん。未確認。)、しかも飽くことない9回もの異常な回数のオーケストラリハーサルならびに指揮者と二人きりでもノンストップロングリハーサルを敢行した後の話なのである。

 これがいつもの本番前のリヒテルなのか、あるいはやや誇張が含まれていやしないか、などという点はまあ措いておくとしても、素晴らしい話ではないか。隣に爆弾が落ちても眉毛ひとつ動かしそうにないあのリヒテルは実は緊張ポンチだったのである!ババーン!

オススメ度:☆☆☆☆☆(5段階)

連続技、文庫購入の巻

2006年4月15日

 昨晩ブリュッセルに戻った私である。さて、日本における滞在で私にとって最も重要な行為の一つというのが本、それも主に文庫本の購入なのだ(軽さと値段を極限まで追求した結果である)。世の中には日本食を大量に持ち帰る人も多いようだが、私はそれよりもなによりも本である。いつも数十冊持って帰るので、「本ばっかりでおかしい」あるいはもっと的確に「狂っている」などと言われることもあるが、気にしない。日本語で本を読むのは楽しい、楽しい楽しいワーイ!なのだ。とりわけ音楽関係の書籍は海外では手に入りにくいので見逃せない。

 そういうわけであるから、私は今回も可能なかぎり大きな本屋、古本屋、楽器店、タワーレコードなど、巡った。あっちでドン、こっちでドンと買うわけである。そうするとどういう現象が起こるかというと、それはそれは悲しい現実の発生なのである。滞在の時間が限られているということもあり、大した吟味をすることなくレジに持って行ってしまうため、同じ本を2冊買ってしまうのである。

 そんな馬鹿な!と仰られる方もおられるだろうし、私もかつては、日垣隆氏の「同じ本を何冊も買ってしまう」とかいう話を読んでうそつけと思っていたのだが、こういうことはどうやら実際に起こり得るのである。今回は気が付けば手元に「クラシック批評こてんぱん」という本が2冊あり、しかもご丁寧なことに新書版と文庫版を買い分けていた。無意識のうちに買い分けるなんてすごい!私はもんのすごい天才かもしれないと思っているが、仮に私がどんなに天才であっても、またその本が名著であったとしてもやっぱり複数冊はいらないかも。

読める読めない

2003年11月29日

そういうことなので私はさっそくではあるけれども、サーキンの伝記「RUDOLE SERKIN A Life」をAmazon.ukで買い求めたのである。何だって?と聞き返していただきたい。え?いやだからサーキンの伝記本を買い求めたのである。でも何で?と重ねてお尋ねいただきたい。え?いやだから面白そうだったから、というのが主な理由なのである。最後に、何語なの?と質問していただければ私は以下のように答えたい:え?いやいや、もちろん英語ですよ、日本語には翻訳されていないようですしね、アハハ。

私は今まで日本以外で生活をしたことがなく、英語は塾に通っていたものの、とりわけスーパーに出来るわけではない。そんな私がいきなり英語で本を読もうというのであるから、とんでもない話なのである。英語のまとまった文章など、高校の授業以来であり、しかも高校卒業後はそのようなもの、ほとんど一切目に触れさせていないので、私の読解力は、はるか忘却の領土に飛んでしまっている。

しょうがないので辞書を片手に「新出単語」を書付けつつ読んでみているのだが、これがはかどらないことおびただしい。まずもってアルファベットを読む、という行為のなんと集中力を強要されることか。加えて現在のところ、二行につき一語程度は見知らぬ単語があり、辞書を猛烈なスピードでめくる(どうでもいい事かもしれないが私は辞書を引くスピードには自信があるのだ)、だんだん手が痛くなってくる、頭はぼんやりする、のどは渇く、うっかりビールに手が出る、どうでもよくなってくる、アッハハハハハ、ドンドンチャンチャン!という悲惨な末路をたどる毎晩なのである。次の日、さーてどこまで読んだっけ、ってまだ「序文」のところをうろうろしてますやん。

「朝比奈隆 わが回想」

2003年2月14日

 昨今では口汚くこき下ろされたりもしている朝比奈氏ではあるけれども、誰がなんといおうと日本のクラシック音楽界に与えた影響はバチグンであったと私は思う。一口に言えばカリスマである。何と言っても顔がいい。いいよ。いいですねえ。世界最年長指揮者として長年活動をしておられたわけだから、もちろんその顔と言ってモワモワ・・・チーン!と頭に浮かぶのは、晩年のそれである。なんとミリキ溢るる顔であることか!氏の指揮する演奏会が開かれる度に熱狂的なファンがホールに詰めかけ、超長時間に及ぶカーテンコールを続けたというエピソードは有名だが、彼らの発狂の主な理由は氏の素晴らしい顔にあると言って過言ではない・・・ってやっぱり過言のような気もするが、まあいい。

 その朝比奈氏が人生を振り返った対談が最近徳間書店より文庫化されている。これが強烈に面白いのでバチグンにオススメなのである。京都帝大出身の、音楽に限らず博識であったという氏の発言は、どこを読んでも素晴らしいのだが、その最大の魅力は、誤解を恐れずに言うなれば、多少ゆるんできたその頭脳から来ているのではないか。ほんまにそんなんでええんですか?と思う発言てんこもりなのである。なんだかテキトーなのである。例えばベルリン・フィルを振った時の思い出話「僕は(第二次大戦中の)上海で(寄せ集めの)オーケストラのうまいのになれてますからそんなに驚かないんです」ってほんまにほんまですか先生!?・・・しかしそこはそれ、やはり歴史に名を刻む大指揮者であったのだから、その発言にも重みが出てくるし、実際はその発言ほどには適当な人生ではないとするのがよいようにも思われるがなあ。251P、590円。

「葬送」平野啓一郎著

2002年9月25日

数年前、雑誌「新潮」冒頭に掲載せられた小説で唐突に有名になった平野啓一郎氏は時代がかったようなそうでないような、ってか何ですか、ようわからんなぁ、ちう語彙を駆使して第一作「日蝕」、第二作「一月物語」を書いたのでした。私はといえば一読、意味のわからない単語の多い事に驚き、その後、おもろいんかおもんないんかようわからん内容に再びびっくりしたのでした。錬金術、両性具有、磔刑、奇跡、てな内容だったよなぁくらいしか思い出せませんが、とりあえず、へろろ、なんじゃこりゃ、と舌を出してびっくりしたことは昨日のように思い出します。

その平野氏、第三作目に選んだ主題がショパンとドラクロワ、と聞きますとピアニストのはしくれとしましてもついつい注意が向くというものでして、ヴァリヴァリ長い上下巻あわせて1200ページ強っておいおい、ハードカバーで出たばっかりの本を買っちゃいました。

まず気がつくことは、あの変な語彙集が駆使されておらんということで、ま、たまさか顔を出しますが、おお、こりゃー読みやすいなあなどとごくまっとうな感想を持ちます、ってこんな瑣末なことはどうでもよろしい。この本を読んで、英雄、即ちヒーロー、即ちhero、あるいは天才、即ち天賦の才、即ちジーニアスが大好きな私は、ショパンのその英雄、天才にあらためて感動したのでして、特に彼がものすごく久しぶりにコンサートを開くあたりの描写は平野氏も筆が冴えておりましてな、嵐のような観客の拍手を想像しただけで単純な私という一個体、有機物はひどく興奮してしまいましたのですよ。

あるいは熱烈な願いが叶い姉と20年ぶりに再会を果たす場面、それに引き続いてショパンの臨終のあたり、こういう「お涙ちょうだいもの」にも全く目がない私は、ちょうど西武新宿線田無駅手前を疾走中でして、うわーんと電車の中で涙を流し、隣のヤクザ風のおじさんと肩をヒシと抱き合いカナシイね哀しいよ悲しかぁないかいオイオイオイとやりそうになるのを必死に堪え、車窓から飛び去る家屋、洗濯物、公園のジャングルジムなど眺めて気持ちを落ち着けておりました。あ、風船・・・ガタンゴトン。とりあえず何が何でもショパンが好き!てな人と泣きたい人にはおすすめ。ただしワンワン泣くには1100ページあたりまで読み進まないといけません。あ、ドラクロワの口で語られる天才論も興味深いですぞ。上下合わせて¥4.300(税抜)。

「能・文楽・歌舞伎」ドナルド・キーン著

2002年5月17日

 「日本人以上に日本文化に通暁する」と言われるキーン氏の論文集である。なぜ日本古典芸能についての本を読んでみようかと思ったかといえばやはり、先日ひとりかぶきの伴奏をしたことに端を発している。役者の針生氏は能の勉強をしているらしく、話を振ってみると実に嬉しそうな顔をしてあれこれと話される。それが興味深かったので、自分でもちょっと調べてやろうとばかり、読んでみたという次第である。なぜ外国人の手によるものを読んだのかというとそれは、恥ずかしながら自分が能などについて全く無知であり、いわゆる日本人なら当然知っているだろうという「前提」も抜きにしたところから知りたいと思ったからだ。

 もともとアメリカ人のために書かれたこの本(原書は英語)はもちろん、分かりやすくていねいであり、能を始めとする古典の基本中の基本と思われることをよく学ぶことが出来たという点で大変に有意義であり興味深く、あっという間に読了したのである。

 ところで西洋クラシック音楽を学ぶ私もいわばキーン氏と同じような立場であり、日本人が氏の事をややともすれば奇特な人ととらえたり多少の好奇の目を持って見るのと同様、私もヨーロッパの人たちから、奇妙なものを見るかのような視線で見られたりもするのだ。このことについては以前からいろいろと考えたりしているし、一種のジレンマでもある。さて、異邦人が異文化について語る、しかもそれを再度日本語に翻訳して日本人が読む、という特異な形態をとっているこの本自体が、我々という存在のためのヒントなのだ。395P、¥1、250。

「グランドジョラス北壁」小西政継著